さて、日本各地に収容された俘虜たちは、娯楽でもあり生活の規律を維持するためでもあったのでしょう、絵画や模型製作、パンやソーセージなどの食料製造、楽器の製作など様々な創作/生産活動を行っています。一部には、その高い技術力を生かして、市中へ労役に出た者もいます。そのような活動の中でドイツ人達にとって最も重要なものが、"音楽活動"でした。
前章で述べましたように、俘虜の将校を殴打して、管理が厳しいとされた久留米俘虜収容所長の眞崎甚三郎中佐であっても、収容所内での音楽活動を許可し、そのことを上から咎められると「ドイツ人にとっての音楽は・・・(中略)・・・日常生活の最低不可欠なものである」と答えたとされています。
少なくとも、全国にある「久留米」、「板東」、「習志野」などの大きな収容所では楽団を結成しているのが普通でした。それらの楽団に属していない音楽サークルも多数あったと考えられます。特に、徳島県の板東俘虜収容所のパウル・エンゲルが率いる"エンゲル・オーケストラ"、ヘルマン・ハンゼンが率いる"M.A.K.オーケストラ"が有名ですが、実は久留米にも、オットー・レーマンが率いる"ラーガー・カペッレ(収容所楽団)"という、板東に勝るとも劣らないオーケストラがありました。また、この楽団を核にしてその他の音楽サークルを統合したと思われる「シンフォニー・オーケストラ」もあったようです。久留米高等女学校での演奏会の時には、このシンフォニー・オーケストラが演奏したのでしょう。
オットー・レーマンが率いる、久留米の"Lager-Kapelle(収容所楽団)"の人々。
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さて、これらの全国の俘虜収容所のオーケストラは、日本の音楽史上重要な足跡を残すことになります。1918年6月1日、板東俘虜収容所で、ヘルマン・ハンゼンの指揮によって、男声のみの合唱、不完全な編成ながら、日本で初めてベートーベンの交響曲第九番が演奏されました。但し、この時の演奏は、夜間、収容所内での演奏であって公開されたものではなく、収容所の軍関係者は聴いたかもしれませんが、日本の一般市民が聴いたものではありませんでした。
それでは、一般の日本人が交響曲第九番を聴いたのは、一体いつ、どこで、どのようにだったのでしょうか。それは第一次世界大戦が終了して一年ほど経った頃、日本にいた俘虜達にも母国への帰還の準備が始まっていくらか明るい気分が漂いはじめた1919年(大正8年)12月の久留米の事でした。久留米高等女学校が久留米の第十八師団と交渉し、収容所の俘虜達による演奏会が許可されたのです。12月3日に催された演奏会のプログラムの中で、全曲ではありませんでしたが、交響曲第九番の「第二楽章」と「第三楽章」が演奏されました。
それは限定的な演奏であったとしても、日本において、一般市民が初めて交響曲第九番を聴いた瞬間でした。そしてその一般市民とはつまり、久留米高等女学校の生徒たちと教職員だったのです。