演奏前の記念撮影か。右側に立っているドイツ人は、指揮者のフライヘア・フォン・ヘルトリンク少尉であろう。
この写真では、演壇の後ろにも部屋があるように見える。講堂で講演や演劇などをする時に必要な物を収納する倉庫であろうか?
この写真は ハンス・ヨアヒム・シュミット氏のホームページから、ご厚意により掲載。

久留米高等女学校で行われた演奏会の様子については、生熊 文 氏(いくまあや氏;ドイツ在住のため Aya Pusterさんとも)が訳した"クルーゲの日記"によって知られています。その中から、演奏会について書かれている部分を見てみましょう。

・・・最後の数週間の騒ぎの中で、いくつか嬉しい出来事もあった。

12月初旬に我々のオーケストラが久留米の女学校から講堂でコンサートをして欲しい との招待を受けたのだ。事務所が「30人と16の楽譜台」の許可を与えたので、 ある快晴の朝、驚く事に歩哨なしで、陸軍軍曹一人に率いられて女学校へ出かけた。

我々はとても気持ちよく迎え入れられた。始めに会議室に通され、そこで校長が訓辞を述べて大変親切に挨拶してくれた。 それから女の先生方がコーヒーとケーキを供応してくれ、次に校長が学校は「謝礼」は出せないが その代りに感謝の印として古来の女流剣道(薙刀のこと)をお見せしようと言った。

そのため我々は体育館に案内され、剣道の師匠の指揮の下で演習が行われた。 それを描写するのは難しいが、そのこなれた愛らしい動きは我々に大きな喜びをもたらしてくれた。

そして立派な講堂へ向かう。そこにはもう全部用意ができていた。少女たちは自分のベンチに座っていたが、 皆とてもお行儀よく、お手々を重ねて、これから始まる出し物を待ち焦がれていた。 プログラムはドイツ語で印刷してあったので、それぞれの出し物の前に通訳が黒板に題名や作曲家に相当する言葉を書いた。

さて、コンサートが始まった。 聴衆は座ったまま指揮者にお辞儀をしたので、たくさんの桃色の顔の代りに 突然色とりどりの背中と黒髪でいっぱいになった。少女たちが本当に音楽を楽しんだのか、 ドイツのお客様に礼を尽くそうとしただけなのか、私は分からない。 とにかく一曲ごとに、割れるような、しかし統制された拍手が起こった。そしてプログラムは長かったのに、 最後の瞬間まで緊張して注目が保たれた。

それどころか特別演奏項目もあった。小さな音楽家の少女がある楽譜を持ってきて、 はにかみながら「この曲」を演奏してくれないかと尋ねたのだ。それはシューベルトのセレナーデだった。 通訳がそれを黒板に書くと、席中にどよめきが伝わった。アアとかオオと言う声や囁き声がした所を見ると、 この曲は明らかによく知られているらしかった。拍手もそれに相応してもっと大きかった。

コンサートの後、またコーヒーとケーキが出て、校長先生のお話があり、一人ずつ献呈の辞の付いた絵葉書を記念にもらった。・・・

生熊 文 氏の"クルーゲの日記(三冊)"の翻訳より抜粋

この文は「日記」と称されていますが、実際は、エルンスト・クルーゲ(1892~1979)という人がドイツへ帰国してから書いた、戦前から戦後にかけての「回想録」であるため、残念なことにいくつか記述が不正確と思われるところがあります。

しかしながらこの"クルーゲの日記"が、 この感動的な演奏会を広く世に知らしめるきっかけになった事は間違いありません。生熊 文 氏のすばらしい翻訳に感謝するものです。

私は、最近偶然に、ドイツのハンス・ヨアヒム・シュミット氏のホームページで、同じように当日の演奏会に参加していたエーリッヒ・フィッシャー(1891~1975)という人の日記を発見しました。それによれば、上記の文で生徒の一人がリクエストするところについてはやや異なることが書かれていましたが(第四章参照)、こちらは本当の日記であることから、おそらくフィッシャーの記述の方が正確なのでしょう。