第一次世界大戦が終わって、いよいよ俘虜達がドイツへ帰国する際に、5年余の収容期間中に亡くなった11名のために、慰霊碑を建てていきました。亡くなった原因は、戦場での傷がもとで2名、病気などで9名であったといわれます。
当初は山川招魂社に建てられたようですが、その後山川招魂社にあった陸軍墓地の移動と共に一旦場所を移され、さらに1997年の4月に現在の正源寺の放生池のほとりに移転されたようです。それは、収容所からまっすぐ北へ1km程行ったところでした。
さて、久留米俘虜収容所には、戦争中から、「つちやたび」や「志まや足袋」などの会社に労役に出た俘虜達がいました。その中には、ゴムの加工法などに関する技術を伝え、またその改良に携わったり、或いは製造機械を保守・改良したりするドイツ人もいました。現在「つちやたび」は靴の専門メーカー「株式会社ムーンスター」となり、「志まや足袋」は後年の「日本足袋」を経て世界最大手のタイヤメーカー「株式会社ブリヂストン」となるまで発展しました。「つちやたび」に出向いたハインリッヒ・ヴェーデキント(Heinrich Wedekind:1889~1971)は、長く50余年にも渡ってそこに勤め、久留米のゴム産業の発展に寄与し、「上田金蔵」という日本名までも使っていました。ヴェーデキントの話す日本語は筑後弁そのもので、人々から親しまれていたといいます。
久留米俘虜収容所のドイツ人が久留米市へ与えた直接的な影響のみならず、現在の日本が、国の存立のためには製品や技術を輸出する事をもって"技術立国"しているとするならば、全国の俘虜収容所の、敗戦した祖国へ帰らず日本に留まったドイツ人たちの日本への貢献は極めて大きいものがあると思われます。また、久留米俘虜収容所では二十一名が日本に留まり、そのうちの十二名が地元などの企業に雇用されたようです。
ドイツとの間に、このように、俘虜収容所を通して重要な歴史的関係があることを知る久留米市民はあまり多くはありません。その為、この慰霊碑を訪れる人も殆どありません。周辺は荒れているという程ではありませんが、既に慰霊碑の頂部には若干の破損があって、セメントで不器用に補修した跡もあります(このページ最下段、三枚続きの真ん中の写真)。
この慰霊碑のすぐ近くには、春先になるときれいな桜が咲く小さな公園があって、地元の人の隠れた花見スポットになっているようです。私は、数年前、桜の季節にビールを持ってこの碑にお供えし、ドイツ人達が日本に果たしてくれた貢献に感謝しつつ、お祈りをしたことがあります。
果たして久留米市がこの史蹟に価値を見出して、今後もきちんと管理してくれるかどうかは予断を許さないところではないでしょうか。
正源寺の池のほとりにある慰霊碑 |
中央、正源寺の池のほとりの鉄十字の印が現在慰霊碑のある場所 |
剣の上下に1914~1919と彫ってある慰霊碑正面。
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側面には亡くなった11名の名前が刻んである。
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