当時の高等女学校とは、入学資格が尋常小学校六年の卒業者(12歳)で、修業年限が四年または五年であったようです。したがって入学時が12歳で、卒業時が16歳か17歳ということになり、現在の女子高校生よりも年齢が低いということになります。第四章で紹介することになるエーリッヒ・フィッシャーの日記には「10、11歳~14歳の少女たち」というような記述も出て来ますが、これは間違いと思われます。
この演奏会について記録を残したドイツ人たちは、高等女学校のことをドイツ語で"Mädchen・schule"と書いています。ドイツ語でMädchen(メートヒェン)は「少女」、Schule(シューレ)は「学校」という意味ですが、彼らの書いた文の中には「お嬢ちゃんたち」のような言い回しがかなりあって、現在の高等学校の感覚から言えば少々違和感を感じます。しかし、ドイツ人たちからみれば日本の女子は年齢が低く見えたりもして、それも無理からぬ事だったのかもしれません。
そんな"少女たち"の教育に情熱を注いだのが、久留米高等女学校の二代目の校長だった武藤直治です。ドイツ人たちが書いた文をよく読むと、当時の久留米高等女学校では、日本の大正時代の女学校らしく躾や武道などについてもきちんと教育していた半面、西洋音楽をも楽しむことのできる教養を身につけさせていたり、英語の先生もいて外国語の教育もしていたことが読み取れて、大変興味深いものがあります。
そして、自分の生徒たちに本場の西洋音楽を聞かせたいとの一心だったのでしょうか、武藤直治は1919年(大正八年)3月に校長になったのですが、ドイツ人俘虜たちによる演奏会を何としても自分の学校で開かせて欲しいとの厳しい交渉を久留米第十八師団と重ね、その年の12月に、ついにそれが許可されたようです。
そしてこの熱意が、この演奏会を聴いた人々に深い感銘を与えたのみならず、その時には誰も気が付かなかったと思いますが、久留米高等女学校の"少女たち"と教職員こそが、 日本で初めて、ベートーベンの交響曲第九番を聴いた一般市民であるという光栄な歴史的事件に立ち会わせることになったのでした。
舊校舎(旧校舎)と説明があるので、学校が移転(第三章参照)した時に記念で発行されたと思われる絵葉書(このホームページの作者の所有物)。
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武藤直治という人は学者としても優れた人であったようですが、その人となりについては、明善高等学校のホームページに次のように紹介されています(2021年5月時点)。